萌葱色の季節に
「月光・第一楽章」
 春のはじめの授業にしては、それは変な授業だった。

「祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。……」

 壮年の教師が読むそれは、巧いことはたしかなのだが、
 どちらかと言うと眠気を誘うものだった。
 古典の授業なので、当然語句は古めかしく、すなおに読むこともできない。
 なおかつ昼食後の時間とあっては、寝るなと言うほうが拷問だろう。

 それでも彼女は授業中に居眠りする性格ではなかったので、
 少々ぼうっとしながらも教科書の文面を追っていた。

「さて、これは『平家物語』の冒頭だ。
 訳は書いてあるとおり、この世の中は常に変化していくもの、という意味になる」

 無常、常ならぬもの。
 よく無情と間違われる、と教師は丁寧に教えてくれる。

 だがここで言う無常は情けのないことではなく、
 同じものがない意味なので、常という字を使うのだ……云々。

「古代の人々は今より寿命も短く、またこの時代は特に戦が多く、
 人々はこの無常観をとても身近に感じていた。
 そして現代も勿論無常であり……」

 おそらく平家物語が好きなのだろう。
 気合いの入った教師の熱弁に、何人かは眠りから引きもどされたようだった。

 けれど彼女は、教師の言葉にひっかかりを感じて、思考を留めてしまう。
 普段であればそうしていれば指されてしまうものだが、
 今日はよほど自分の論を語りたいらしく、立て板に水の勢いは衰えそうにない。
 どちらかと言えば古典というより歴史になっているが、
 生徒は面白そうに聞いているので、たまにはいいのかもしれない。

 歴史の裏側の話まで披露する教師に、生徒も楽しそうに質問をする。
 返答する調子は淀みなく、盛りあがったまま授業は終了した。
 新学期早々の授業としては、上々かもしれない。

 入れ違いに担任が入ってきて、ショートホームルームがはじまる。
 とりたてた連絡もなくスムーズに終わり、三々五々生徒が散っていく。
 彼女もその波に乗って、帰路をとった。

 無常だと、先生は言うけれど。
 ……本当に、そうだろうか?

 勢いづいていた教室でそう問うのも憚られて、結局無言でいたけれど。
 それがずっと心にひっかかっていた。

「……先生の、いうとおり」

 ふいと立ちどまってまわりを見渡す。
 ちいさなころに越してきたこの一角はいわゆる住宅地。
 最初のころはまだ空き地もあったけれど、今はほとんど埋まっている。

 それはたしかに変化であり、いつも同じではない。
 道の石ころだって、動いていないように見えても、明日には1cmずれているかもしれない。
 今日の空気と明日の空気は同じにしか感じられなくても、
 その中の成分とか温度とかを精密に比べれば違ってしまう。

 平家物語で言う無常がそこまで科学的なものであるわけではないけれど、
 つまりはそういうことも含めての言葉なのだろう。
 けれど無常であり無情であると言うのは、なんとなく釈然としない。

 春の風は冷たすぎず、ゆるく彼女の髪を梳いて通りすぎる。
 その心地よさに暫時目を閉じてから、彼女はちょっとだけ歩くスピードをあげた。

 家に帰ると、そのままある一室にむかう。
 広い部屋には本棚と、時代がかったオーディオ、そして年代物のグランドピアノ。
 日光を当てるとあまりよくないものを集めたこの部屋は、家族の趣味の部屋となっている。
 スイッチをつければ、暖色の灯りがともる。
 室内を明るくしてからピアノの前に立ち、順に蓋を開けていく。
 譜面台を開けるだけでもいいのだけれど、せっかくなので後ろも全部開けてやった。

 もうとうに暗譜しているので、譜面は置かずにスツールに腰掛ける。
 手を鍵盤の上に置いて、深呼吸をしてから、指を降ろした。

 ゆっくりとスローなテンポで流れる、月光ソナタ。
 よく聴く曲だったから、一番に覚えたくて。
 けれど練習曲をこなせるようになった程度では、とても弾けたものではなかった。
 それでも弾きたい一心で無理を言い、練習を続けた。
 その甲斐あって、今は暗譜しきっているし、強弱の波もできるようになった。

 はじめて弾いた時に比べれば、格段に巧くなっているだろう。
 ピアノの先生にもお墨つきをもらったのだから、自意識過剰ではないはずだ。
 それはたしかに無常と言える。

 だが、悪いことではない。

 それに自分の本質が変わっていたら、きっとこの曲を弾こうとは思わない。
 そういう意味ではいつでも同じものがあるのではないだろうか。

 自分が死ぬ時なんてまだまだ考えつかないし、想像もしたくないから、
 その時まで確実に同じであるなんて言えないけれど。
 けれど今の延長が未来なら、それはきっと違いはしないと言える。

 少なくともこの曲を好きである気持ちは同じだし、
 上手になったけれど、この曲をここで弾く自分、というのは変化していない。
 難しく考えると頭が痛くなりそうだけれど、
 流れる音に身体をゆだねていると、なんとなくそれでいい気がしてくる。

 5分の曲はやがて終わり、さしてミスもなく指を離す。
 満足そうに笑顔を浮かべると、近くの窓に寄り、カーテンを動かした。
 見える町並みは、弱くなりつつある日差しを受けてオレンジ色に染まりつつある。

 いつまでも変わらないものはない。
 それは、きっとそうだけれど。

「でもこの気持ちがあるかぎり、私はココでピアノを弾くから」

 この通りを歩くひとが、いつもこの時間になるとピアノが聞こえてくる、
 ……なんて覚えてくれたら、楽しみにしてくれたら、それはとても素敵なことだ。

 そのためにも、下手になるわけにはいかない。
 彼女はいったん着替えて練習をしようと、鍵盤カバーを乗せて部屋を出た。

−終−

初出:2005.11.13 / 背景:NOION / 音楽:ノクターン

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 お嬢様のイメージなので、こんな感じに。
 諸行無常の考えはそれぞれですし、ちょっとズレているかもですが……