頭痛と睡眠

 うとうととしていたところに、かちゃん、と響いた金属音。
 帰ってきたのだ、とわかっても、鈍った頭はすぐさま動くことを許さない。
 それでも、起きたがらない身体をなんとかなだめすかして半身を持ちあげる。
 スリッパを置いた地点に方向転換して、くらまないよう慎重に立ちあがった。
 寝ころんでいたせいで乱れた髪を乱暴に手ぐしで直す。
 ぼさぼさのままだったら、彼は絶対、自分が寝ていたことに気づくからだ。

「お帰りなさい」

 帰宅を喜ぶ声は本物だから、音にすることになんの不自由もない。
 薄手のコートを玄関脇のフックにかけていた彼は、彼女を見てにっこりと笑う。

「ただいま」

 片手でネクタイをゆるめながら、脱ぐ時に置いていた鞄をとろうとする。
 その手を止めて自分が持つと、丁寧にありがとうと言う。

「ごはん、すぐつくるほうがいい?」

 鞄を胸に当てながら見上げると、まともに正面から目が合った。
 いつまでたっても恥ずかしくて、かと言っていきなり顔をそらすのもおかしなもので。
 どうしようかと目を瞬いていると、悩んでいた彼の視線がこちらにとどまっていることに気づいた。
 無意識に首をかしげれば、重なった目線は自然に途切れる。

「どうかした?……悩むなら食事にする? 私もまだだし」

 食事とお風呂、それほど悩むものか自分にはわからないけれど。
 今まで眠っていたので自分もまだ夕食を食べていない。
 食欲はさほどわかないけれど、もとよりそう入るほうでもないからかまわないだろう。
 そう考えたのだが、彼の表情は動かない。
 ……と、不意にその手が伸びて、自分の額に当てられた。

「……調子が悪いですか?」

 問いかけに、一瞬ぎくりと身をすくませた。
 それで十分だったのか、彼の表情が険しくなる。

「ちょっと頭痛がするくらいだから、気にしなくても。
 さっきまで横になってたし……」

 慌てて言いつくろうが、逆に半眼になっていくばかり。
 もっとうまいいいわけができればいいのだけれど、いつもボロを出してばかりだ。

「熱は、ないでしょ? たいしたことないよ」

 額の手にそう語りかけるけれど、返答はない。
 相変わらずむっつりとしたままだったが、不意にその表情が動いた。
 にっこりとした笑顔は、とても危険な兆候。

「いわゆるお姫様抱っこで寝室まで連行されるのと、
 自分で歩いていくのとどっちがいいですか?」
「……こ、このままごはんのしたく……っていうの、は?」

 つられてこちらはひきつり気味の笑顔を浮かべると、

「そんな選択肢はありません。我儘を言うと強制的に前者の選択にしますよ?」

 きっぱりした言葉とともに額の手が腰にまわる。
 今にも抱えあげられそうで、彼女は大慌てて逃げる。

「わ、わかったから、それはやめてっ」
「……了解」

 ほんの少し残念そうにうなずくと、先に立って寝室へむかう。

「あ、でも、夕飯どうしよう……」

 はたと思い出した彼女に、ああと頷く。

「準備はどこまで?」
「ええと……寝てたから、そんなにしてたわけじゃないけど。
 おなか、すいてない?」

 くるっとふりむいた彼に問いかけると、苦笑された。
 ぽん、と頭に手を置かれて、そのままさらりと下まで通り抜ける。

「私は貴女が寝たあとでどうとでもできますよ。問題は、貴女」
「ああ、……そんなにすいてないから大丈夫」
「それなら、夜中目が覚めたら、何か食べますか」
「……私そんなに調子悪そう?」

 なにがなくとも寝る方向に持っていく恋人に、不思議そうな表情で問う。
 相手はまじまじと彼女を見てから、ふぅっとため息をついた。

「髪の毛は直したみたいですが、鏡は見なかったんでしょう。
 ……青いですよ、いつにもまして」

 指摘されると言うことは、よほどなのだろう。
 たしかにそれでは誤魔化しようがない。
 実のところ薬を飲んでもてんで利かなかったので、眠りたいところではあるのだが……

「まだ何か?」

 寝室についてパジャマに着替える動作が緩慢なことに、まだ気がかりがあるのかと思う。
 体調が悪いせいで、という様子ではない、気持ちがよそに傾いている、そんな感じ。
 遅い動作ながらもボタンを止めおわると、むーっという声が聞こえてきそうな表情で口を開いた。

「……だって寝ると喋れないから」

 拗ねた子供のような発言に、思わず笑ってしまう。
 それにさらに気分を害したのか、無言でベッドにもぐりこんだ彼女の隣に、自分も滑りこんだ。
 反対側をむこうとするのを押しとどめて、こちらがわをむかせる。
 いつも寝る方向とは逆になる、右をむこうとするのは、ふてくされているいい証拠だ。

「話すのくらい、いつだってできますよ。
 私は体調の悪い相手に話し相手を要求したくもないですし。
 今治して明日喋ればいいでしょう?」
「……うん、それは、わかってるけど」

 明日は今日ではなくて、今、この時喋りたいとか、そんなふうに思うこともあって。
 なにか特別なことがあったわけではないけれど――
 的確な言葉を探す彼女をなだめるように、頭をなでてやる。
 少し不満そうにしながらも、体調の悪さにはかなわないのか、自然と目が閉じられた。

「眠るまでいますから。今日はそれで納得してください」

 あやすような科白に、うん、と小声で返答する。
 気恥ずかしいのかぎゅっと目を閉じていたが、それもじきに自然なものになり、規則正しい寝息が聞こえてきた。

「……やれやれ」

 寝ついた彼女を確認して、一息つく。
 少し無理な体勢をしていたので、身体の左半分が痛いが、どうせすぐなおるので気にしないことにする。

 調子が悪くても一緒にいたいとか、喋りたいだとか。
 若いころなら大喜びで、彼女に多少無理をさせても起こしていたかもしれない。
 そう考えれば自制の利く年になったことを喜ぶべきなのだが――
 眠っている彼女を見ているだけで満足してしまうというのも、それはそれで複雑ではある。
 これではまるでただの「いいひと」のようだ。

 とは言え今の自分と彼女はれっきとした恋人同士なので、週末の休みには、今日の分も含めて恋人の時間を過ごせるだろう。
 どこかへ行くのもいいし、部屋の中で過ごすのもいい。
 忙しくてかまってやれないぶん、買い物の荷物持ちでもなんでも喜んでやるつもりだった。

「……だから、ちゃんと体調を戻してくださいね」

 となるとこれは彼女の心配とともに、自分の欲望のためでもあるのだろうか。
 くだらないことを考えながら、ひとり寂しい夕食を用意すべく、ベッドからそっと抜けだした。

 背景:Simple@Ism





 壁越しの気持ちとはキャラクターが違いますが、テーマ的には同じ感じです。
 両想いになってめでたしめでたしってどうにも好きじゃありません。
 そのあとこそ書きたいな……なんて。
 まあ、大体あまあまになるのですが(汗

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