小さな夢

 眩しい光に顔をしかめて、僕はゆっくりと目を覚ました。

 目を覚ますまで、僕は自分が眠っていたことも知らなかった。
 ぼんやりしながら、ともかく上体を起こすと、身体中が軋んで思わず渋面をつくる。
 いくらベッドの上で眠っていたとは言え、この脳に残るぼんやりとした感じからして、
 おそらく何日も眠っていたのだろう。それを考えればこの痛みは当然のことだ。
 最も僕には、地面も、カーペットの床も、そうとは見えないのだけれど――

 ……そこまで考えて、僕はある違いに気づいて窓の外を見た。

 吐き気と嫌悪感のかたまりでしかなかった景色が、変わっていた。
 ぽつぽつとまばらに、未だそういうモノは残っていたけれど、
 大部分が――昔、まだ僕が人間と同じ視覚を持っていたころに見たものと、
 非常に似た景色になっている。

 けれどまだ細部は以前の、視覚障害を起こしたあとと同じで。
 僕が「治った」わけではないと判断できた。
 ……では、なぜ?

「どうして……」

 無意識に乾いた声で呟いて、それからはっと隣を見る。

「沙耶!?」

 さほど広くないベッドの上。
 そこに求めた姿は、なかった。


 ……あの時。

 彼女が「咲い」て、そしてその開花が終わったあと。
 僕はもう物言わぬ彼女を抱いて、家の中に入った。
 寝室へ行き、もともとよりさらに軽くなった彼女をそっと横たえて。

 終わりじゃないと、はじまりだと彼女は言った。
 これが僕へのプレゼントだとも。

 だけど僕は、子供がほしかったわけじゃない。
 いや――それは勿論、彼女との間に子供がもうけられるのであれば、
 何人でもほしいと思う。けれど、彼女の命を奪ってまで求めるわけではない。
 子供が何人できようとも、彼女はただ一人なのだから。

 沙耶。

 僕の世界にたったひとつ、与えられた光。
 すべてを失い絶望のただ中にいた僕を、救ってくれた彼女。

 彼女がいればこのおぞましい世界も、なにもかも、そのままでかまわなかった。
 その沙耶をなくしてしまったら、視界が治っても、子供が産まれても。
 そんなものはガラクタと同じで、なんの意味もない。

 沙耶の手を祈りの形に組みあわせて、その寝顔を眺めて。
 僕にはそれだけで十分に満たされたから、ずっとそうしていた。
 そして途中から、その記憶は途切れている。
 おそらく、眠ってしまったのだろう。

 だとしたら、隣にいる……あるべきはずの沙耶は?
 動けたはずはない、なのになぜいない?

 そしてこの景色。
 僕は立ちあがって外を見た。

 ……やっぱりそうだ、景色が違う。

 でも、何故?
 僕が治ったとは思えない。

 そしてなぜ沙耶はいない?

 状況がつかめず困惑していた僕は、耳にとどいた声にも、
 すぐに反応することができなかった。

「あれ? 郁紀、起きてたの?」

 軽やかな、鳥のさえずりに似た愛らしい声。
 聞き間違えるはずも、忘れるはずもない。

 けれどもう二度と聞けることはないと絶望していたはずの――

 僕は、恐るおそるふり返った。
 振り返ることも怖かったけれど、そうしないわけにもいかない。
 夢なら覚めないでくれと、どうか記憶のままの彼女に会わせてくれと、
 信じてもいないなにかに祈りながら、ことさらにゆっくりと。

「おはよう、郁紀」

 にこ、と微笑む彼女。
 長い黒い髪の毛、清楚でシンプルな白いロングスカートのワンピース。

 けれど今そこにいる彼女は、僕の記憶よりも……成長していた。

 およそ20程度、といったところだろうか。
 雰囲気のせいでわからない感じはするけれど、
 柔らかにのびた肢体は、大体そんなものだと……僕の記憶が告げる。
 頭のどこかでそんなふうに考えつつ、けれど言葉にしようとすると、
 なにひとつとして明確なものは出てこない。

「沙……耶?」

 ただ、自分でも情けないほどのかすれた声だけが滑り落ちる。
 沙耶は、悪戯がばれた子供のような顔をして、ぺろりと舌を出した。

「うん、そうだよ、……えへへ、びっくりした?」

 僕と同じくらいの年齢になった彼女は、しかししぐさはそのままのようで、
 そうするとかつての姿とだぶる。

 僕はおぼつかない足どりで彼女に近づき、震える手でその手をとった。

 温かかい、と思った瞬間、僕は彼女を抱きしめていた。
 沙耶は一瞬驚いたらしく身体をすくませたが、すぐに腕をまわし、
 幼子にするように軽く僕の背を叩いてくれる。

「沙耶……沙耶……」

 僕はそれ以外の言葉を忘れたように、ただ彼女の名を呼んだ。
 こらえきれずにこぼれた涙が、彼女の肌に、白い服にしみこまれていく。
 それはまるで贖罪のようだと、不意に思った。

「ごめんね、あの時……郁紀、びっくりしたでしょ?
 沙耶もね、子供を産んだら……死んじゃうんだと思ってたの」

 僕を抱きしめながら、彼女はうたうように言葉を紡いでいく。

「それでいいはずだったの。
 でも……郁紀が、泣いているのが、わかって。
 やっぱり一緒にいたいって、ただそう思って……
 気がついたら、こうなってたの。
 だからひとまず郁紀の傷を治して、あとはびっくりさせたくて、眠っていてもらって」

 弾んだ声で喋り続ける彼女、それは大喜びしている時の証拠だ。
 僕は沙耶の胸もとから顔をあげて、彼女を抱きしめ直す。

「まだ完全じゃないけど、もうすぐこの世界は、
 郁紀が見ても綺麗だって思えるようになるよ。
 沙耶と郁紀の子供たちが、今、世界中に広がっているから……」

 僕が見た景色は、そういうことだったのか。
 納得すると同時に、気づく。

「じゃあ、僕は沙耶が思うより早く起きちゃったってこと?」
「そう、ホントは、全部綺麗になってから、起こすつもりだったから」

 残念そうに言う彼女に、にこりと微笑む。
 そういう僕への心遣いが、とても嬉しくて。

「でも、変化していくのを、沙耶と一緒に見るのも悪くないし。
 ……もう会えないと思っていたから……少しでも長く一緒にいたいよ」

 腕に力をこめると、大きくなった彼女が体重を預けてくる。

「この姿になってて、最初はびっくりしたけど……
 でも、こうなりたかったから、凄く嬉しかった」

 両手をあわせて、自分自身に拍手するように。
 僕は無意識に首をかしげて、そんな沙耶に問うた。

「なりたかったって……どうして?」

 心底不思議そうな僕に、彼女は照れた笑いを浮かべた。
 もじもじと恥ずかしそうにしながら、ええとね、と口ごもる。
 それでも最後には口を開いた。

「だってやっぱり、このほうが、郁紀も喜ぶかなって」
「……どんな姿だって、沙耶は沙耶なのに」

 困ったように呟くと、そうだけど、とうなずいて、けれど反論する。
 少し眉をひそめた表情は、複雑そうだった。

「郁紀は、どんなわたしだっていいって言ってくれる。
 ……そんなのはわかってるつもりだけど、
 でもヨウみたいな魅力はなかったでしょう? だから」

 要するに、悔しかった……のだろうか?
 僕の瑶への気持ちは、どちらかと言うと本能的なものだった。
 気持ちが通じていなくても、ただ快感を得られればいいというだけの。
 沙耶はたしかに身体は少女のそれだったから、
 瑶のそれと比べれば、どうしても……劣るというか、そういう面はあった。

 それでも心が通じていれば、行為自体の快感よりも、充実感や幸福感がある。
 僕にとってはそれで十分だったのだが、沙耶は違ったらしい。
 ……満足していなかったのだろうか、とふと不安になった。
 そんな僕の気持ちを見透かしたように、沙耶が僕を見る。

「それにね、読んでいた本でも、やっぱりみんなこれくらいの年齢だったから。
 だからできるなら、わたしも大人の女性になりたかったの」

 以前、彼女は恋愛小説が好きだと僕に教えてくれた。
 その中のいくつかは、僕にも聞き覚えのある有名な、ドラマ化されたものもあって。
 たしかにそういう中の女性は、主人公とそう年齢差もない。
 ……日本の法律に抵触するというのも、あるけれど。

 かわいらしい理由に、僕は表情をゆるませて、彼女の頭をなでた。
 沙耶は気持ちよさそうに僕にされるがままになっている。

「それにね、新しい世界に完全になってからやりたいことをするためには、
 この姿のほうがいいと思ったから……」
「やりたいこと?」

 夢見るような表情に、首をかしげる。
 大人の姿になったほうが都合がいいことなど、あっただろうか。
 もとより一般常識など必要ない僕と沙耶なのに?
 顔中に疑問符を浮かべている僕に、彼女は今度こそ真赤になって、
 消え入りそうな声で告白した。

「だって……花嫁さんに、なりたいから……
 教会で、ドレスを着て、郁紀と永遠を誓うの」

 そんな沙耶の願いに、僕はしばらく沈黙して……それから笑った。
 なんてささやかで、そしてなんて……愛しい願いなんだろう。
 こんなにもまっすぐに僕にむけられる感情。
 幸せすぎて目眩がしそうなほどだった。

 沙耶の、大きくなっても華奢な身体を抱きあげて、くるりとまわす。
 小さく声をあげてしがみつかれるけれど、これくらいなら落とすことはない。
 そうして、僕と彼女の視線を同じ位置にして、僕は言う。

「前のままの沙耶だって、かわいい花嫁になったと思うよ?」

 それは僕の本心だった。
 たしかに、小説やドラマの女性のようにはならないだろうけれど、
 世界中のどんな花嫁よりも可憐になることは間違いない。

 僕の言葉を、けれど沙耶は、それじゃ駄目なの、と不服そうに言う。
 ……女の子の心というのは、なかなかに複雑らしい。

「ちゃんと大人の姿で結婚するのがいいの。
 ……だから、ね、……郁紀、沙耶と、結婚してください」

 じっと僕の目を見て、彼女は言う。
 これ以上ないほど真剣に、万感の思いをこめて……

 僕はと言えば少しの間沈黙して、それから、苦笑いした。
 今にもため息を吐きそうな僕に、一転して不安げな顔になる彼女。
 なにを考えているかはすぐにわかったので、それをうち消そうと微笑みかけた。

「……あのね沙耶、小説、読んだなら知ってるだろ?
 プロポーズってのは大体、色々と準備してから男のほうがするものなんだよ」

 この場合の色々とは、俗に言う給料三ヶ月分というやつだ。
 しかし視覚異常のある僕には、ダイヤモンドもそうと見えないし、
 この変わった世界で、果たしてそれに代わるものがあるのかはわからないが……
 要は、男のプライドというものだ。

 僕の言葉に、沙耶はうっかりしていた、という表情になる。
 ……こういうところがまた、かわいいのだけれど。

 僕は沙耶をおろすと、騎士が忠誠を誓った姫君にするように、跪いた。
 驚いている彼女の手の細い手首に口づけて、じっと見あげる。

「沙耶、僕はなんの取り柄のない男だけど……でも、君を好きな気持ちは誰にも負けない。
 だから……僕とずっと一緒にいてくれないか?」

 結婚してくれ、と言おうとしたけれど、それも沙耶の二番煎じじみてしまうので、あえて避けた。
 だけど、彼女だけに言われっぱなしも嫌で、……我ながら子供っぽいとは思うけれど。
 沙耶は見る間に目に涙をためて、それからあわてて何度もなんどもうなずいた。
 立ちあがった僕はもう一度彼女を抱きしめる。

「嬉しい、うれしい……」

 僕の名前と「嬉しい」という言葉を繰り返す彼女。

 唐突に開けた未来。
 沙耶によってもたらされたそれは、僕らにとっての希望。

 だけど本当はそんなものどうだっていい。
 彼女は僕のためにと言う、それで彼女が幸せなら僕も嬉しい。
 それだけのことで。

 ただ僕は――

 こうして彼女をいつまでも抱きしめていられればいい。


 そしてそれは叶うのだ。

 僕らは――僕と沙耶はこの新しい世界で最初の結婚式を挙げて。
 お伽噺のようにいつまでもいつまでも、幸福に暮らすんだ――


−終−
 
 
 初出:04/12/26 改訂:05/01/05 / 背景:トリスの市場

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 沙耶の夢を怒濤の勢いでクリアして、
 そのまま考えたグッドEDのその後になります。
 女医さんが「結婚式に参列」云々と言っていたので、
 だったら死なないことにしてもいいよね、と。
 ……そう考えるのは特殊らしいですが(汗
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