空に
 飛びたい。

 子供のころ、きっと誰もが一度は思ったこと。
 空を自由に飛ぶ鳥のように羽ばたきたいと、一度は願ったことだろう。

 走ることはもとよりできる。
 海を泳ぐこともできる。……深くまでは無理だけれど。
 しかし空だけは、自分の力だけでは叶わない。

 それゆえに人々は飛行機をつくり、気球をつくり、潜水艦をつくり……
 身体では叶わない夢をかなえようとした。

 彼の「飛びたい」という欲求は、魔法を見つけた時から変化していった。
 新しくあらわれた元素記号0番、MA。
 幸か不幸か彼には才能があった。
 そのメカニズムを解明し、実際に使うことは容易ではなかったが、
 目の前に見えた「夢」が実現できると思えば、さしたる苦労には思えなかった。

 そして彼はただ夢のためだけに魔法を研究しつづけた。
 結局、世間に認知されるには至らなかったが、協会でのたしかな地位は獲得した。
 地位も名声も不要だったが、資料閲覧や行動に制限がなく、
 むしろ援助されるのはありがたかったので、そのまま利用させてもらった。

 ただの夢は今では、すぐそこにあるものになっていた。
 手につかめないものだけれど、まるで叶うようなくらいに。

 己の身体ひとつで飛ぶことはできない。
 だが、「自分で浮かせた動産の上に立つ」ことは、イコール自分で飛ぶことと同じと言えよう。
 いつのまにか主たる夢は、空を飛ぶことから、
 自分の魔法によって浮きあがった動産に変わっていたが、さしたる不都合はなかった。
 その時を考えるだけでわくわくした。
 それによる様々な危険性はわかっていたけれど、目標の前には小さく思えた。

 それから数年後、彼は大学の講師に落ちついていた。
 協会の力と、私立大学の人気とりで新設された法学部。
 けれどブームの過ぎた今となっては、まわりからの覚えは決してよくはない。
 当て馬のような具合だったが、彼にはどうでもよかった。
 金のある私立大学で、協力者となる生徒を得て、自分の夢を実現させる。
 そのためならばなんでも些細なことに思えた。

 手ぐすねひいて待っていた最初の生徒に、彼は相当の情熱を注いで魔法を教えた。
 たしかな才能と応用力に優れた彼女は、彼にとって理想の生徒だった。
 まっすぐに自分を見る目は、法学界の第一人者への尊敬と、個人への親愛にあふれている。
 正直、自分のどこがそんなにいいのか首をかしげたが、
 とにかく彼女、春菜は彼の教えることを水がしみこむように吸収していった。

 そしてようやく実験を行うまでに到達した。
 期待に満ちてはじめた浮動産の実権。
 けれど一度目のそれは失敗に終わる。
 しかも原因は、明らかに外部からの妨害によるものだった。

 冗談じゃないと、彼は壁を殴りつけた。
 生徒の前であったけれど、そんなことを気にするだけの余裕もなかった。

 浮動産の欠点がわかると言う意味では有意義だったが、
 自分の夢を阻まれたという事実は、彼を激昂させるに十二分だった。
 誰ともわからぬ相手からの妨害、自分の知るかぎり、それだけの力を持つ者はいない。
 自分の知らない、魔力に精通するものが、どこかにいるのだ。

 拳に血が滲んでも、痛みに気づかないほどの感情の高ぶり。
 腹立たしい気分を過ぎた時、不意に笑みが浮かんだ。

 口の端をつりあげて、くつくつと笑う。
 壁を壊したいくらいに憎らしい、けれど同時になんて楽しみだろう。
 今度自分が実験する時、まだ見ぬだれかはどう妨害してくるだろう?
 それを考え、あらかじめ防衛手段を講じておく。
 かれと自分の知能戦のはじまりだ。

「まるで恋のようだね」

 呟いてまた笑う、乱れた髪をかきあげて。
 もう一度実験を行うには、ずいぶんと時間がかかるだろう。
 今日の実験によってわかった欠点を補う方法は、今の自分にはまだ見つけられない。
 けれど遠からずそれは叶うだろう。
 きっとその間にかれはさらに力をつけて、自分の計画を潰そうとしてくるだろう。
 それは奇妙なほど確信できる予感だった。

 ライバル、というものがこれほど自分をやる気にさせるものだとは知らなかった。
 今までの彼にはそんなものは存在しなかった。
 そも魔法をたしなむ人物が少ないということもあったけれど。

 そこまで考えて、彼はふと自分の教え子に考えがいった。
 教え子が、教師の真実に気づき、そして戦いを決意する。
 どこかのくだらないドラマのような展開。
 けれどそのくだらなさが、彼にはとても面白く感じられた。

 かれとあわせて彼女を敵としたら、自分は夢の実現にとても労力を払うことになる。
 だがそれが、それこそがいいと思った。
 障害があるほど燃えるとは恋の常套句だが、ここにも当てはまると考えた。

 それゆえに彼はなおいっそう彼女を大切に育てていった。
 実験が失敗しても彼を信じ、風当たりの強くなった法学部に一人在籍している彼女。
 最初の生徒にして、最高の生徒だろうと、本心から思った。

 しかし、徐々に気づいてしまった。
 彼女の性質は彼の望むところではないと。

 彼女の魔力は強い、だが、自分への尊敬の念もまた強い。
 自分の計画を知った時に、彼が満足しうる「障害」となるかどうかは疑問だった。
 潔癖な彼女のこと、計画を許容できるはずはないが、
 完全な敵となるには情がありすぎる。

 惜しいと、思った。
 そして同時にそういう目でしか彼女を見られない自分も自覚した。
 彼女のむけてくる純粋な好意。
 それはもしかしたら教師と生徒の枠を越えているかもしれない。
 けれど自分は、まったくそれに関心がない。

 可哀想だと思った。
 だからその時がきたら、彼はかれにできる一番最悪の方法で彼女を捨てようと決意した。
 それまでは大事にだいじにして、……その気持ちは嘘ではないから。

 最後に捨てよう、なにもかも、残酷なまでに冷静に。
 そうでなければきっと彼女は、かれを嫌うことができないから。

 もしもそうしたらその時は。
 その情愛の目を、畏敬の念を。

 激しい憎しみに変えて、自分にむかってくるかもしれないから――


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 初出:05/05/17 / 背景:第九天國