夢のおわり
 子供ができた、と、告げられた。

 唐突な言葉に、彼は少しの間相応しい返答を探す。
 夕食後の一服、そこでの突然の科白。

 街の雰囲気を気にいり、この部屋に住みはじめて、もうずいぶんになる。
 長く旅をしてきたため、最初のうちは慣れなかったが、
 居間では定住生活にも大分愛着を持てるようになってきた。

 なんとかきちんとした仕事にも就いて、豊かではないが、安定した生活。
 さして広くない部屋で、けれど充実した毎日を過ごしていたある夜。
 きちんと食器を片づけて、二人分のお茶を用意してから、告げられた。

 その意味を消化するまで、少しかかった。
 けれどそれが自分の中で現実味を帯びるに従い、喜びが沸きあがってくる。

「そうか…楽しみだな」

 薄く、けれどたしかに嬉しそうな顔で笑って、
 気持ちのままに目の前の華奢な身体を抱きしめた。

 やわらかな肢体、たおやかな風情、長い髪、どこか透明な表情。
 自分と同じ石鹸を使っているはずなのに、甘く薫る香り。
 それらは、出会ったころから、そして、今になっても、ほとんど変わらない。
 あれから数年がたったというのに、美しく、どこか浮き世離れしたままだ。
 だから時々こうしないと、翌日には露と消えそうな、そんな不安がいつもかすめる。

 勿論子供もできるくらいだから、そういった行為もしているのだが、
 そんな時の彼女もどこか美しいままで。
 心のままに乱れるには、あと少し、なにかが邪魔をしている。

 抱きしめられると、彼女は恥ずかしそうにうつむいてしまう。
 いつまでたっても慣れない様子に、思わず笑みがこぼれた。
 彼女はおずおずと腕をまわし、不安げに問いかける。

「生んで…よろしいのですか?」

 いつまでたっても消えない丁寧な口調。
 けれどそれが彼女らしくて。
 はじめのころは苦笑して直そうとしたけれど、今ではすっかり慣れてしまった。

 彼女は、答えを待って息をひそめている。
 深い瞳はいくらか翳りをおびていた。
 彼は彼女の暗い気持ちを吹き消せるようにと、敢えて明るく言う。

「俺が堕ろせなんて言うわけないだろ?
 ……嬉しいぞ」

 簡潔なその科白に、彼女はほっと息をつく。
 そして、愛おしそうにまだ膨らみもしていないお腹をなでた。
 どこか夢見がちな表情で、遠くを見ながら、彼女は囁く。

 誰にともなく、――空にむかい。

「女の子だったら…名前は……」

 その言葉に、彼は返事を返さなかった。
 返せなかった、というほうが正しいかもしれない。
 肯定も否定も、正しいとは思えなかったからだ。
 ただ、いたわるように抱きしめるだけ。
 壊れものを扱うように、細心の注意を払って。

 ただ、これからすべきことだけは、わかる。

 うっとりとした表情で彼の腕に身をまかせている彼女に、言葉を選んで彼は言う。
 長いこと封じていた記憶を思い出させるキーワードを。

「そろそろ…あの街へもどるか」

 あの街、と聞いて、彼女がぴくりと反応する。
 目を伏せて、なにかに耐えるような、そんな固い雰囲気をまといだす。
 はっきりわかる拒絶と、……怯え。

 いまだ溶けきらないしこりに、彼は眉をひそめる。
 痛ましさや、後悔や、そんな諸々の感情は、彼すらもたやすく闇に落とそうとする。
 けれど、これはいつか片づけなければいけないこと。
 だから彼は、はっきりと口にする。
 今が、その時なのだと、確信して。

「一度…帰るべきだ、そうだろう?」

 そう、問えば。
 彼女はうなずくより方法を持たない。
 帰らなければならないことは、なにより彼女がわかっているのだから。
 けれど、いまだに残る傷が、彼女を躊躇わせる。

「子供ができるなら…なおさらだ。
 ……報告、しないつもりか? 母親に」

 噛んで含めるように言うと、しばらくの沈黙のあとにおずおずうなずく。
 長い髪がさらりと揺れて、微かな音を立てた。
 おそるおそるといった風情で顔をあげ、すがる目遣いで彼を見る。
 ぎゅ、と、背中にまわった手に力がこめられた。

「わたし…今度は逃げずにいられるでしょうか?」

 震える声で、ぽつりと漏れる言葉。
 力の入った手も、同じように小刻みな振動を彼に伝えた。

「……今度は……」

 ……今度「こそ」は。

 奥底にひそむもう一つの声が聞こえた気がした。
 それは自分の心の声かもしれないけれど。
 言葉に代えて、彼はそっと小さな肩を抱く。

「大丈夫だ」

 即座に、意図的に強い声で言う。
 不安があるのは自分も同じこと。

 今度こそ彼女を現実にむかわせるため。
 長すぎる夢を終わらせるため。
 できるかぎりのことを、自分はしなくてはならない。

 ――そう、「今度こそ」

 それが、空の少女との約束だから。
 自分は一度、失敗してしまったから……

「お母さん…」

 ぽつりと呟く声には、隠しきれない響きがあった。
 なつかしく、さみしく……愛おしいもの。

 捨ててきても。夢を見続けることを選んでも。
 それでも彼女にとってあのひとは、変わらず母なのだから。

 偽りの役を演じてもいいと思わせた、たいせつなひとだから……

「…三人で…しあわせに……」

 ……それでも。

 それでも彼女はまだどこか夢を見ている。

 生まれてくる子供は女の子に違いないという確信。
 その子はハンバーグが大好きで、シャボン玉が好きに決まっているという想像。
 長い髪をふたつに束ねて、元気よく自分を呼んでくれるという幻想。

 まだ彼女は抜けだしきれていない。
 夏は彼女の中に美しくありつづけている。過去ではなく、延長線で。

 けれど、夢はもう終わる。
 母親のもとへ帰れば、彼女はいいわけを持たなくても彼女になれる。
 今こそ、そうならなければならない。
 昔、その結末を消してしまったのだから。

 そして……そののち生まれてくるだろう子。
 育てばそだつほど、「あの子」とは違うと、嫌でも気づくだろう。

 同じ少女はどこにもいないということを。


 ……きっと、夢は終わる。
 自分たちは進んでゆける。

 今度こそ。

 そう考えて、彼は彼女に口づけた。


−終−
 
 

 背景:Breeze Area

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 美凪バッドED後です。
 なので彼女はいまだにとらわれている、という状態で。
 バッドのほうがしっくりしたのはここだけの話です。